僕がいない場所

孤児院で暮らす少年クンデル。彼に友達はなく、先生の言うことにいつも反抗していたため問題児とされていた。ここには彼の居場所がなかったのだ。そこでクンデルは孤児院を脱走し、母のいるアパートへと向かった。しかしそこでクンデルが目にしたのは、恋人とベッドを共にする母親の姿だった。いくら彼が母の愛を求めようとも、母親にとってクンデルは邪魔である以外ないのだ。母に期待出来ないことを悟ったかれは、河岸に係留されている廃船の中で暮らすことにする。
ポーランドの女流監督ドロタ・ケンジェルザヴスカによる長編。ドメスティックバイオレンス、または育児放棄などによって孤児院にあずけられる子供たち。ポーランドが抱える社会問題を取り上げ、親に見捨てられた少年が、それでも気丈に生きようと奮闘する姿を情緒的に捉えた作品です。
霧に佇む古都ポーランド。豊かな水量をたたえる川面に反射する朝日のまぶしさ。自然と人の手による建造物が上手く調和している、正に中世の面影を残す古き良き時代の情景が展開しています。
映像だけ見るならば大変美しいカットの数々。スラブチックなメロディで、思わずメランコリックな気分にさせてくれるマイケル・ナイマンによる音楽と相俟って、差し詰めポーランド観光ガイドとでも言った趣すらあります。
しかしそれとは裏腹に、主人公であるクンデルが直面する現実はとても悲惨なもの。孤児院での彼が他の子と仲良くなれなかったのは、きっと「自分だけは本当は親に愛されているはず。他の連中とは違うんだ!」と言う気持ちがあったからかも知れません。
しかし実際自分の家に戻ってみたら、母親から「もうここには来るな!」と言われ、結局はここにも居場所がないことを知っただけ。自分の親であることを否定されると言うのは、子供にとっての親の存在を考えた場合、もはや死刑宣告にも近いものがあるでしょう。孤独とは正にこのような状況を指すのではないかと。
場所を変え、ここ日本においても「孤独」を訴える少年少女たちはたくさんいます。しかし彼らはインターネットやら各種媒体から得た膨大な情報を元に、「知識として」自分が孤独であることを認識しているだけとも考えられます。ここに登場するクンデルのように、実際的に孤独を経験したのとはわけが違う、と思うところもあります。
しかしながら日本でも、今のようになってしまった子供たちから嫌われることを恐れるあまり、過保護になったりまたは子供に対する自らの責任を放棄してしまう親のなんと多いこと!
子供に体当たりで接することが出来ない。当然ここに本当の意味でのコミュニケーションなど存在しないでしょう。となると、実際は日本の子供たちも親に見捨てられたも同然。世間体があるのでかろうじて「家族」の体裁を保ってはいるものの、実態として日本における潜在的な「孤児」も相当な数にのぼるのかも知れませんね。
さて映画に戻り、母親の元から去り廃船の中で暮らすようになったクンデルは、川沿いに建つ裕福な家の娘と心を通わせます。彼女もまた、出来の良い姉と比べられることで劣等感を抱いています。彼女は自分とクンデルとの間に共通する何かを見出し、彼と一緒に旅へ出ることを承諾します。そんな彼女に慰められる彼ですが、その時間は長くはなく・・・。
本来無邪気であるべきはずの子供が、このように人生を達観してしまう姿がやるせない。今時の親にこそ是非見てもらいたい映画ですね。

@ちぇっそ@