声に出して読みたいロシア詩

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今夜はなんだか急に詩が読みたくなり、随分前に買っていた新潮社の現代詩集「ドイツ・ロシア編」のページを開いてみました。
まあ、ドイツ編に関しては、オーストリア人や、エストニアから東ドイツへ亡命した詩人の作品など、だいぶ範囲が広くなっているようですけど。
詩心など解すことのないと思っていたワタクシですが(基本的に現実主義なんで)、小手調べとして先ず最初に、オーストリアの詩人トラークルなどに目を通してみたのです。
そもそも詩と言うのは、よく「朗読会」などを開いたりするわけで、そこで私は思いました。
「それならば、声に出して読んでみるのがおもしろいんじゃないか」
私の知り合いの役者さんが、自身のHPで朗読のブログを立ち上げたりして、それに触発されたってのはあります。
彼が読むのは昔の短編小説だったりするのですが、私もそれを真似て、少し言葉の持つ響きそのものを堪能してみようかと思った次第で。
ロシアの映画「ノスタルジア」では、イタリヤ語に翻訳されたアルセーニィ・タルコフスキーを読もうとする恋人に対し、主演のヤンコフスキーが「翻訳された詩なんて読むな!」と吐き捨てます。
とは言え、例えそうだとしても私なんかが書く駄文などより、これらはよっぽど洗練された芸術作品だと思うのです。
それを声に出して読むと、やはり趣き深いものがありました。世界が広がると言うか、詩の書かれた意味が実感されるのです。
正にこれこそが、詩の持つ本質なのではないかと思いました。
一旦ざっと目を通してから、抑揚の付け方などいろいろ試しながら、ちょっと遊び心なんぞを交えてやりますと、ますます詩の世界にのめり込むことがでます。
気分はすっかり森本レオ
もっとも私の場合、元来が森本レオのようにマイルドなしゃべり口ではありませんで、それならばと、丹波哲郎や、タイムボカンのドクロベェ様を真似て発音してみるんです。
するとどうでしょう。ロシア詩に関して言えば、そんな泥臭い雰囲気の方が似合う気がします。
まだ全て読んだわけではありませんが、特に気に入ったのは、ブロークの「十二」や、エフトゥシェンコの「バビ・ヤール」、またはヴォズネセンスキーの「アンチ世界」などでした。
ロシアの詩人と言えば、他にレールモントフがいたり、ロープシンの作品にも散文詩的な響きがあり、だから彼らが書く長編小説にはいつも静謐なイメージが漂っているのです。
声に出すということは、おのずと日本語の発音そのものを意識することとなります。
英語なんかを勉強していて、発音が良くなってきたりすると、なんでもない文章を読んでるだけで楽しいものです。当然、逆もまた然り。
自分が日本語を勉強中の外国人だと思えば、日本語に対して新鮮な感情が湧くのではないでしょうか。
とは言え、これが意外と意識の切り換えができない。
やはり私にとって、日本語は“日常”でしかないのです。今更新鮮味を感じろと言われても、そんなわけにはいかんのですね。
だから別のキャラクターになって、「この人ならこう読むだろう」なんてやってみる。
そしてそれが上手くと、どうです?なかなか楽しいとくるじゃありませんか!こうやって新しい可能性を見出して行く喜びがありますね。
もちろん私が目指すところは、「いかにロシア的に読めるか」と言うこと。
例え翻訳された文章であっても、もっとこうロシア的な語りで聞かせることができないものかと思うわけです。
しかしこれが難しい。確かにロシア映画を結構見ている私にとって、「ここはこう読みたい!」と漠然としたイメージはあるのですが、いかんせん役者のように鍛えられてないので、付きまとう困難が甚だしいのです。
とまあ、夜中に一人でなにしてるんだとお思いでしょうが、詩の朗読、ちょっとクセになりそう(笑)
もっと練習して、今度リサイタルでも開こうかな。
「露派 ちぇっそ・もっさ詩の朗読会 〜下町のレーニン廟を訪ねて〜」
とかね。

@ちぇっそ@