アンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ(上) (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ(上) (新潮文庫)

ロシア小説の古典、文豪レフ・トルストイによる大長編「アンナ・カレーニナ」を読み終わりました!
社会的地位もあり、裕福な貴族であるカレーニンと結婚しているアンナ。しかし彼女にしてみれば、夫は機械のように仕事に没頭する官僚であり、人間性の薄い冷徹な人物でしかなかった。そこへ現れたのが、若く溌剌としていて情熱的なヴロンスキーであった。かくしてアンナは、夫への忠誠を投げ出し、ヴロンスキーと恋に落ちるのであった。
このように、大変大まかなあらすじだけを追えば、単なるメロドラマではないかと思われるでしょう。確かに、大筋のところメロドラマであるのは否めないところ。しかしそこへ、貴族の出ではあるが、農業に打ち込むようになったリョービンの物語と対比させることによって、当時ロシアが抱えていた社会問題などを浮き彫りにし、19世紀末の貴族及び農村社会を描き出した一大叙事詩に仕立て上げています。
ストーリーの山場は数あれど、特に印象に残ったのが、ヴロンスキーが競馬の障害物競走に出走した場面とか、リョービンとヴロンスキー、そしてリョービンの親友であるオブロンスキーの3人が狩りに出るシーンなど。
前者は、馬の生々しい息遣いまで伝わって来て、ライヴァルと繰り広げる緊迫したレースの攻防が実にスリリング。後者は、自然を良く知るリョービンが、都会育ちで要領の得ないヴロンスキーに振り回される、とっても喜劇的なドタバタが楽しい。しかし、トルストイの描く自然の描写などは相変わらず素晴らしく、たそがれの水辺や、朝もや立ち込める沼の様子など、どこか神聖な雰囲気すら漂わすものでした。
リョービンが登場する場面では、当時ロシアの農業問題などが取り沙汰されることが多く、現代の感覚からすると実感しづらく、いささか読み難い部分ではありました。もちろん当時としては、とても画期的な問題を取り上げていたわけで、個人的にはあくまで参考資料的に考え、軽く読み飛ばした部分です。この辺りは、それこそ「専門家」の研究対象になるのでしょうね(笑)
アンナの悲劇と言うのは、貴族社会の抱える問題が鬱積して、それが追い詰められたアンナに降りかかった“人災”とも言い表されるものでしょうか。お役所的な融通の利かなさと、しきたりと打算的な思惑ばかりが横行する世界で、真綿で首を絞められるが如く、その身を転落させていったアンナに、昔ロシアの人々は同情を傾けたのでありましょう。
さて、よく言われる「トルストイキリスト教的人間愛と道徳性」についてですが、私が読んだところかなり印象が違いました。
この思想的な部分はリョービンに語らせているわけですが、私の解釈が間違ってなければ、むしろリョービンと言う人物は無心論者であり、彼が宗教とは何であるかを自問自答し、その中から何かを求めようとするが結局は何も得られるものはなかった。
最後には、“自分がここにある”と言うことだけ信じて、普段の生活に戻ってゆく。いわゆる宗教・信仰とは全く正反対のことが書かれているように感じたのです。
すなわち「信仰心」と言うものは不安定で、盲目的に信じると言うよりは、神の存在について思い悩むことこそが重要である、と言っている気がしてなりませんでした。「あなたの信仰心はいかなるものか」これを読者に説いていたのかも知れませんね。
明確な答えに辿り着くことのない、宗教的なアイデンティティを模索したままで終焉します。しかしそれが、逆に私にとってはリアルに映り、大変共感の出来るものでありました。
一瞬「んん?」となり、その後「うん!」。今では、「う〜ん、やるなトルストイ!」っなったところでしょうか(笑)
とかく名作と言ったものは、その敷居の高さを感じさせるものです。ましてやロシア文学、特にトルストイやドストィェーフスキーなどと言った”巨匠”となると、その長大さも伴い非常にとっつき難い部分があります。
しかしながら、これら古典には「読ませる力」が存在し、ツボにさえハマれば、そこには得も言われぬ読書体験が待ち受けているのです。
腐るほど時間のある大学生なんかは、是非挑戦してみることをお奨めします!(笑)

@ちぇっそ@