ありがとう三百人劇場!


今日はお店を早上がりして、文京区は三百人劇場ロシア映画を観に行って来ました!(って最近こんな出だしばかりっすね)
しかしまあ残念なことに、この作品をもって、この度閉館することになった当劇場で上映されるロシア映画が最期となってしまうのです。そう思うとなんだか上映前から感慨深くなってしまいます。
普段なら幕が開くまでの間、本を読んだりパンフを広げたりするのですが、今日ばかりはそんな気にもならない。まだ明るい館内の様子をじっくり見回し、「ああ。天井のライトの下に落下防止用ネットが張ってあったのか」とか、「やっぱり演劇用の劇場だけに、音がよく響くように出来ているもんだなぁ」
とまあ、これで見納めとなるかも知れない劇場の様子をつぶさに観察。「最後の1時間半をたっぷり堪能したい!」そんな気分のワタクシでありました。
今夜見たのはアンドレイ・コンチャロフスキー監督作「愛していたが結婚しなかったアーシャ」です。コンチャロフスキーは、ニキータ・ミハルコフのお兄さんとしても知られていますね。兄弟してロシア映画の人気監督なんて凄いですね!
実は以前、同監督の「ワーニャ伯父さん」を観たことがあって、そのときは「お兄さんの方は、個人的にあまり趣味には合わないようだなぁ」と思っていたのですが、本作は端正で凛とした佇まいを漂わしており、また戦争に対する勧善としたメッセージが込められていて、文芸的な風合いに満ちた名作に仕上がっていたと思います。
それにしても、何故最期にこの作品だったのか。これは別に深読みとかなんとかではなく、作中のあるシーンに引っ掛けていたのかなぁ?なんて思いました。それはこんな場面。
地方都市のコルホーズの議長がつぶやく。
「昔ながらの脱穀小屋だからのう、壊すのは忍びないが・・。昔を思い出すよ、結婚式なんかはここでやっておったんだよ」
村の若手が口を挟む。
「新しい脱穀小屋が出来るんだから、これからはもっと良くなるさ」
「ああ、わかっとる。だが、もうちょっとここに居させてくれ」

と言った具合に、正にこれから閉鎖されようとしている古劇場と、そのシチュエーションがダブるようではないですか!更に、主人公アーニャが暮らしていた移動用住居、いわゆるキャビンみたいな貨車が、村人たちによって引き摺りまわされ崖下へと突き落とされます。
これはイジメと言うのではなく、
「お前たちには新しい住居を用意してやる!」
そう宣言した議長の言葉を受けて村人たちが行った、古い住まいの手っ取り早い解体の儀式であったと言うわけなのです。
破壊と再生。これからの三百人劇場の未来を予見させるかの、そんなセレクトだったのではないでしょうか。もっとも、三百人劇場が再建されるのかどうかは、現時点で知るところではありませんけどね。
観劇後、後ろ髪を引かれるように外へ出た私は、一先ずは近くの公園に立ち寄って一服。そしてフィルターギリギリまで吸った後、三百人劇場の前をゆっくりと歩いて、地下鉄の入り口へ向かったのです。
しかしこの劇場でロシア映画を見るのが最後かと思うと、当然その寂しさが増しまして、未練の尾がまたぞろ、私を三百人劇場前へと引き戻すのでした。
写真でも撮って帰るか!
カメラを「オート」に合わせ、夜景なのでブレないようにしっかり脇を締め、一枚、また一枚と、最後の感傷に浸っておりました。
そうですなぁ。10年来、20年来とこの劇場へ通っている古参の老兵たち(!)に比べたら、たかだか5年くらいしか通っていない私などひよっ子同然でしょうが、それでもここまで強い思いに駆られるのですから、昔ながらの劇場って、どこか神秘的な魅力と言いますか、“魔力”みたいなものが備わっているのでしょうかねぇ。
そのように人々の“情”が籠もって、劇場が生命感を得る。そしてまるで生き物のように、人を惹きつけて止むことがない。劇場は人の生命を吸い取って生き、そこで“物語”を楽しんだ人々は、生命の輝きを増してまた人生を歩み出す。
こうして連綿と続いてきた、相互の交感関係が立ち消えてしまうとは。またひとつ、人生が味気のないものになってしまうじゃありませんか。心にぽっかり穴が空いたとまでは言いませんが、スポンジみたいにスカスカで密度のない感じになった気分。
こう言うと、私ってちょっと、感傷に耽りすぎなセンチメンタリストなんでしょうか。
いやまあ、とにかく!
「たくさんの思い出と、たくさんのロシア映画をどうもありがとう!」と、三百人劇場にお礼を言いたい!
ま、もしかしたらまた来月、ちょっとだけ「中国映画の全貌2006」をのぞきにくるかも知れませんがね(笑)とりあえず今回は、ロシア映画上映の最終日だったってことで・・。

@ちぇっそ@