狂った女の歌

タバコくらい一人で吸わせろ

滅多やたらとタバコの旨い日がある。私にとっては、今日がそうだった。
店を閉めた後、どこかで飲んで帰った。店の名前は忘れてしまった。もしかしたら、地下鉄の路線そのものが、私にとっての居酒屋と化していたのかも知れない。
ほろ酔い気味で飲んだ酒は、実に3日振りの美酒であったと言える。飲まない2日間は寝つきが悪かったし、寝起きも優れなかった。これはアル中の兆候なのだろうか。
帰りの電車。“年の端”など意に着せず、優先席で読み更けったのは、PKDによるSF小説だった。
路線の終点、それが私の地元である。
地上へ通じる地下通路を、あともう一息で読み終わるPKDの本を片手に、私は家とは反対方面の出口へと進んだ。
ちょうどJR改札前を通過した頃に、PKDの小説を読み終わった。街灯が途切れた暗がりの中で、その余韻に浸る。
深夜営業のスーパーで“気付け”の一杯を買った。今度こそ家路へと向かう夜半過ぎの放浪者。
越後の銘酒、「長者盛り」のワンカップを開け、ぶらぶら、ちびりちびりとやりながら、雨上がりの闇夜をひた歩く。
「ふむ。実に“キレ”の悪いひと口だ」
しかしこれが、自らの出生を確認すべき、愛すべき地酒の体を為すことは、全くもって否定し難いほどに郷愁を覚える一杯。これが、“新潟の酒”と言うもの。
新潟の酒は決して旨いとは言えないが、私にとって自分のアイデンティティを確認する作業として、こうして時折たしなんでみる、ひとしずくの憩いを味わうひとときかも知れない。
さて、私は八幡の小道を行く。それは、「八幡横丁」と銘打たれた細い路地。
今は昔。かつては町のメインストリートであったそれは、今では大型チェーン店に取って代わられ、以前のような活況を呈することのない、実にしょんぼりとした商店街となっている。
ミニチュアサイズの“巣鴨”のようであると言えるし、時代に取り残された下町の残骸とも言える。
ごく短い通りだが、私はここが好きだ。
おぼつかない足でさまよう、自宅への帰路。どうしようもない町並みの中を、これまたどうしようもない境遇の私がお遍路参りをしているのだ。家までは、果たしてあと千里ほどもあろうものか。この期に及んで、目的地は遠い。
全く集中力を失った私の背後から、誰かの歌が聞こえてくる。
流行歌とも、懐メロとも違う。どうにも浮世離れしたその歌声は、明らかに狂人のそれである。
狂った女の歌だった。
しかしなんともまあ、実にこのようなシチュエーションに即した調べではないか。いまの私のように、この世のすべからずを失ったような気分の時には、人生を後ろ向きに回顧してみせる浪花節こそが、身に染みるレクイエムとなり得る。
手にした酒とタバコが、やけに旨い。
しみったれた歌声に耳をかたむげながら、己そのものを自嘲してみせる。往来の車と人声で、歌の内容まではよく聞き取れない。
しかし彼女に、何故そこまで私の気持ちが察せられたのであろう。私の顔に、よもや“そんなことまで”書いてあったのだろうか!
なんだかおかしくなってしまって、やたらと照れ臭さを感じてしまう。
だが心地よい。酒をすする手が止まらない、何本吸ってもタバコが恋しい。
私はずっと、その狂った歌を聞いていたかった。
途中、空き地の前で立ち止まり、さっきの余韻を引き摺ったまま、また新しいタバコに火を点ける。いつまで経ってもタバコが旨いが、今日はこれで最後。
それでも私が吸ったタバコの本数は、今日一日でこれが7本目だった。
あの狂った女の後ろ姿を思い出しながら、今夜は眠るとしよう。

@ちぇっそ@