ロシア映画2本立て

サーミ人についての話 (東海大学文学部叢書)

サーミ人についての話 (東海大学文学部叢書)

昨日はお店をお休みだったワタクシ。せっかくだから渋谷へ映画でも見に行こうと(ってか最近ほとんど毎日渋谷で映画三昧やんか!)、また渋谷へ行ってきました。(一行で渋谷を3回使った)
最初に見ようとした映画は、渋谷シネ・アミューズだったのですが、地図をうろ覚えで出発してしまったため、現地に着いてから全く場所が分らず、渋谷の街を3時間ばかり右往左往してしまいました。
夕方になりいやらしい霧雨まで降ってくるし、やっとの思いでシネ・アミューズを見つけたときには疲労困憊。しかし逆に、ここまで来たら意地でも観て帰ろうと、気合を込めて館内に入場してやりましたさ!
さて鑑賞したのは「ククーシュカ ラップランドの妖精」と言う作品。名義上は「フィンランド映画」とカテゴライズされていますが、監督のアレクサンドル・ロゴシュキンはれっきとしたロシア人。実質、ロシア映画の父系に連なる作品と言えるでしょう。
彼の撮った「護送兵」と言う作品は、以前武蔵小杉の市民ミュージアムで鑑賞しています。とても素晴らしい作品で、従って今回のこの新作についても非常に期待しておりました。実際、「こちとら自腹じゃ!」では、辛口で有名な井筒監督も3つ星を付けるほど絶賛していました。
果たして、ロシア映画エキスパートの私を充分満足させてくれる作品かな?な〜んて!それではレポートと参りましょうか!
ロシアとの国境を死守するフィンランド軍。勝手知ったる地の利もあり、ロシアに数で劣るフィンランド軍ではあったが、当時彼らは英雄的な活躍で敵軍の侵攻を食い止めていた。平和主義者のヴィエッコは味方から制裁を受けることになり、戦争を放棄した裏切り者として、ドイツ兵の制服を着せられ、足かせで岩に繋ぎとめられてしまった。必死に脱出しようとする彼であったが、鎖は硬く、このままでは敵に見つかり射殺されるか、餓死して天日にその遺骸を晒すかの二者択一を迫られる状況だった。
一方、味方の謀略に嵌められたロシア兵イヴァンは、処刑場への道を護送されている最中だった。ところが目測を見誤った自軍の戦闘機によって、イヴァンを乗せた護送車は爆撃されてしまう。間一髪、直撃を免れたイヴァンだけは生き残ったが、瀕死の彼はもはや自分で立って歩くことも出来ない。
そんなとき、ラップランドに住むサーミ人のアンニが彼を発見する。彼女はイヴァンを連れて帰り看病することにしたのだった。
なんとか鎖を引き抜き脱出できたヴィエッコは、助けを求めさまよい歩くうち、偶然アンニの家へと辿り着く。このラップランドの地で、ロシア人とフィンランド人とサーミ人と言う、お互い全く言葉を解さない3人が一同に介し繰り広げる、ちょっとおかしな人間模様。戦争の悲劇と、北欧の神秘に満ちた物語。
これぞ映画と言うべき作品!先ず持って素晴らしいのは、舞台となるフィンランド最北の地、ラップランドのロケーションの美しさでしょう!とにかく映し出される景色そのものが神秘的であり、おとぎ話の神話世界そのままの情景が目の前に展開するのです。
この奇妙な3人は、お互い言葉が分っているのかいないのか。各々が勝手に喋り、勝手に勘違いしたり理解しあったり。このつかず離れずのすれ違いが、なんとも言えぬ映画の可愛らしさに繋がるのです。決してもどかしい感じにならないのは、脚本の妙に拠るところが大きいでしょうねぇ!
ネタバレにはしたくないので、この作品についてこれ以上多くは語りません。なので、この監督自身について感じたことを少しばかり記述しておきます。
どうやらロゴシュキンと言う監督は手法が一環しているようで、どこかニューエイジ的と言うか、東洋思想に関連したイマジネーションがあるような印象を受けました。エンターテインメントを追求するハリウッドのように、次から次へと事件が起こると言ったことはなく、言葉の違う3人の会話が、まるで禅問答のように空回りしているような感じ。
答えの無い問題に、しかしこの3人はそれぞれに答えのようなものを持っており、その場の状況に応じて、最適の選択肢を見出しているような感じなのです。この辺り、単に私個人の深読みに過ぎないのかも知れませんが、三者三様に言葉も違い、その入り口も違うと言うのに、戦争と言うか、人生そのものにおける答えはおのずとひとつの方向へと導き出されているような。
しかしやはり、明らかにどこかでお互いのことを間違って解釈しているのですが(笑)、その誤差すらを大いなる寛容さで持って認めている。社会ってものは、元々こう言ったことで成り立っていたのではないかと、生活の原点をここにみる思いでもあります。「護送兵」でも、囚人を監視する看守の兵士たちは、規則違反と知っていながらも、囚人たちの間で慣例となっている必要悪を認める部分がありました。
そして死後の世界と言うか、霊的なインスピレーションが本作でも表現されていました。それまで描かれていた日常がある一点を越えた時、不意に深遠なるパラレルワールドへと一変する。生と死の不確実性、ひいては人間と言う存在そのものの不確実性と言ったものを表しているような。
現時点では計り知ることの出来ない問題なのですが、いやぁ、とにかくラストはシビれました。「ロゴシュキン、キター!」って思いましたよ(笑)
ある意味無茶苦茶な作品なのですが、これほど映画の醍醐味に満ちたセンスオブワンダーを感じさせる作品も滅多にお目にかかれないでしょう!小難しいことは抜きにして、とにかくとにかく楽しめる作品であることに間違いありません。
エンドロールの時、悲しくて涙が出るんじゃありません。いい映画を観たことに対して、嬉し涙を流せる作品なのです!笑顔で泣ける映画って、皆さん近頃観てないんじゃないですかぁ!
さて、そんな爽やかな感動作を観た後は、シュールで重々しいことでは人後に落ちない、アレクサンドル・ソクーロフの作品が待ち受けているのでした。
今夜の2本目は、「ロシアン・エレジー」“いまわのきわの接吻”とキャッチコピーにもある通り、冒頭、ある人物が息を引き取るシーンからスタートします。
真っ暗な画面。しかしよく観ると、ぼんやりとだが何か影のようなものが映し出されている。息をするもの苦しく、正にいまわの際に居んとする男性と、それを介護する人々の音声だけが鳴り響く。
そしてちょうどその人物が息を引き取った後に、やっと画面が明るくなり、それまで薄ぼんやりと、まるで木の根のように見えていた影が、実はやせ衰えしわくちゃになった手であったことが分る。
これは一体誰の死であったのか。それは古きロシアの死であったとは言えないだろうか。
ソクーロフ研究家をして、「恐ろしく退屈」と言わしめる映像。そこには、古いロシアのスナップショットばかりが執拗に映し出される。
農村の風景。母なるヴォルガに掛かる石橋。ソクーロフは、まるで失われたこれらの風景をいとおしむかのように、ひとつひとつを記録しなおし、時代の流れの中で決して忘却されないよう、記憶の修復作業を行っているのであろうか。
戦争の記録映像があり、四方を森に囲まれ、森閑とした凍った湖のほとりで眠る、安らかな赤子の寝息が響く。
ここにあるのは、ただ“ひたすら”のみ。
あらゆる説明も思想も必要ないと言うことだろうか。腕を組みなおす、私自身が起こす衣擦れの音すらが、映像に取り込まれ新たなる解釈を生むというのだろうか。
いかようにも解釈できるし、またいかなる意識をも排斥する感覚がある。映像の意図は全く読めない。しかしながらこれは、実験映像ですらなかったかも知れない。もともと意図の無い編集の連なりであったなら、そこにあるのはスクリーンと、それに対峙する私だけ言うことになる。
全く意味は分らないし、理解しようとすることさえ無意味なのでしょう。巨匠に、“してやられた”と思う映像作品でありました!

@ちぇっそ@