リープ・イヤー

リープ・イヤー

リープ・イヤー

今日のロシアはお休みでした。昨日今日と上映している作品が一緒なので、久しぶりに早くお家へ帰れるわけですね。お店が終った後も時間があるので、西新宿界隈で夕飯を食べることにしました。
「ターリー屋」と言うカレー専門店に初めて立ち寄り、2色カレー定食なんぞを注文してみます。マトンを使ったルーと、豆のルーの2種類を選んでオーダーの出てくるのを待ちます。
大き目のナンがちと脂っぽかったですが、概ね満足できる味。屋台みたいで落ち着ける店内がいい雰囲気だったので、たまに立ち寄るのも良いかなと思えるお店でした。店員さんもニコニコしてて良かった。
スティーブ・エリクソンの「リープ・イヤー」を読みました。久しぶりにポストモダンな純文学などを読みたくなり、4冊くらい持っているはずなのに、まだ1冊も読んでいなかったスティーヴ・エリクソンの作品を手にしたわけです。
「リープ・イヤー」とは“うるう年”のこと。これは1988年のアメリカ大統領選挙の取材のため、全米各地を横断した作者自身の旅行記です。しかしここに、第三代トーマス・ジェファーソン大統領の奴隷であり愛人だったサリー・へミングスが現代に蘇り、エリクソンの幻視の中で第三代大統領の魂を捜し求めてさまよう。このことが物語に幻惑的な要素付け加えています。
共和党民主党の間からレーガンの地位を継ぐ事になる候補者たちが現れ、それが予備選挙などによって次第に絞られて行き、遂にブッシュとデュカキスの一騎打ちとなるまでを描きます。
しかしもはやできレースとなってしまった大統領選。古き“アメリカ”の精神を忘れた“合衆国”の追従者に対し、痛烈な批判精神をもって皮肉る作者エリクソンがいます。
それは時に被害妄想のような形を取り、大人のジャーナリストととして、罪のない自己完結型の白昼夢として描かれています。私個人のブログが、時に本筋から脱線するのに非常によく似ている感じですね(笑)
このシニカルな視点が非常に楽しいのですが、いかんせん当時の状況までは私自身が勉強不足であった点が惜しまれるところです。候補者それぞれの個性、掲げる政策などがよく理解できていると、これほどに楽しくておもしろい小説はないのではないかと思われます。
コイツは政策は良いが、それを国民に納得させられるだけのカリスマ性がないとか、コイツこそ時期大統領に相応しい器だったが、途中で政策を変更してしまったから失脚しただの、結局ノータリンだったコイツが、今では最有力の候補者となった。一体彼を支持する国民は、メディアによって盲にさせられてしまったのか!
などなど。時にブラックに時に暴走しながら、作者エリクソンがブツブツと囁く罵詈雑言の数々に、思わずニヤリとさせられることがしょっちゅうです。どこまでが本当で、どこからが空想なのか判然としない辺り、エリクソン独特のファンタジックな雰囲気をかもし出しています。
彼は現代の“合衆国”の現状を憂いているのであり、古き良きフロンティア・スピリットの復権に期待する、心の底から“アメリカ”を心配する善良なるヤンキー。エリクソンは“アメリカ“と”合衆国“を使い分け、世界の”深遠“を見つめる”核想像力“の大切さを説くのです。
例えばそれは、バブルが弾けてしまった後の経済政策の有り方だとか、極端な話として、核戦争後の世界の復興について見据えることの出来る能力。つまり、ネガティヴな事象から目を逸らさず対処する先見の明の有無について、これからの大統領に不可欠な、人種を超えた国民に対する誠実さが本物であるかどうか、見極める必要があると言っているのです。
しかし結論としては、結局はマスコミに踊られされただけの国民が選んだはどちらの候補者だったでしょう。それは今となっては、歴史の一部としてはっきりと記されるところなので、これ以上言葉を連ねるのは止めにしましょう。
エリクソン自身に話を移すと、税金の問題があり身辺をくまなく調べられています。しかしその内務調査が一向に進展せず、「この電話代は一体どこへ掛けたときのものだ?」と再三質問されてうんざりしてしまったり。この辺り、ちょっと情けないところがあって面白かったです(笑)
そうですね、日本で言ったら落合信彦とイメージがかぶるでしょうか。堅物ジャーナリスト言った所がある反面、なんとなくチャーミングな雰囲気もあって、どうしても憎めない感じがする2人ですね(笑)

@ちぇっそ@