朝から職務の点検

スロウリー・ウィ・ロット

スロウリー・ウィ・ロット

警邏棒を持った紺色の制服警官が、店へと向かう私を引き止めたのは、西口のバスターミナルでの出来事だった。近頃犯罪が多発しているので、保全のためご協力願いますと口をきいたのは若い新卒警官のようだった。
朝から全くついていないと思いながらも、ここで大人気なく司法行政とやりあうほど、私自身害あって利のない所為であるため、大人しくさあ調べてくれ、この善良な日本国民には他人を傷つけることも欺くことも出来ぬ身の潔白があるだけだと、為すがままに私の中の秘密を全てさらけ出したのだった。
生まれてこの方、数えで32年になろうかと言う人生の中で、初めての職務質問だった。これで俺の中の一日が全て雲散霧消したと思うのなら、それほど今日一日がみすぼらしい日ではなかったことに感謝すべきであろう。
私は「死の音楽」を操るグループ共が供給する、漆黒の闇のように黒に染まったTシャツを売る店で働いている。そこでは「病的な天使」や「人食い死体」、または「死亡記事」「葬儀屋」、そして「眠る」や「酸性の王」、果ては「腸」「陰茎睾丸拷問」などと言った、おそよ世間からは眉間にしわを寄せて拒絶を受けそうな、腐臭漂う音楽の調べが充満している。
人からはよく、そんな気の滅入りそうな場所にいないで、もっと明るい娑婆へと出て来ないものかと誘われるが、これが私の仕事なので仕方がない。むしろ醗酵してむせ返るような湿気のある方が、かえって私にとって居ごごちの良い“むしろ”と言えるのかも知れぬ。
私は朝食を取るため、西口側の大通りに沿って歩いていた。「リトルスプーン」と言う名の店の看板が、行きがけの私の目に飛び込んできたのはちょうどそんな時だった。「カレー・ラーメン」と言うのぼりに気を引かれて、早くも券売機の前に聳える私がいた。
しかし、どこを探しても「カレー&ラーメン」と言う文字は見当たらない。私はまるで狐にでもつままれたように、四角ボタンの並ぶ発券機の前で硬直したまま時の経過するに任せていた。
カレーとラーメンのセット。カレー、ラーメン?すると見つけたのが“カレーラーメン”と言う、言ってみれば外食界のメガバンクとも言える、二大人気食材の合併吸収が行われた複合施設の呼び名がそこにはあったのだ!
果たしてこれは、カレーとラーメンの両方を食してみたいと言う私の欲求をつつがなく満足させてくれるものなのか。いや否だ!これを認めてしまえば、ライス&カレーと、中華の芳醇な調べを独立して堪能したいのだと言う、私の“2権分立”の精神が否定されることになるのだ!
仕方がないので普通のカレーのみをオーダーすることにして、この場は不条理な決議によって導き出されたミュータントの是非を問うことは止めにして、今はかいがいしく口に運ばれるスプーンの一杯一杯に気持ちを集中させることにしよう。
店での仕事はつつがなく終了し、私はある用件を満たすため、帰らぬ主人を待ち続けた伝説の忠犬像が佇む駅へと向かうことにした。ユーロスペースと銘打たれたその劇場では、名匠アンドレイ・タルコフスキーとはまた違った視点からその芸術性の高さが評価される、今尚生ける賢人アレクサンドル・ソクーロフの2作品が上映されている最中だった。
ヒトラーのためのソナタ」と「ペテルブルグ・エレジー」と言うのがそれだ。以下は私にそっと、しかし意外に口やかましくその作品のなんたるかを講釈してくれた、ちぇっそ・もっさと言う旧知の盟友の言によるものである。
ヒトラーのためのソナタ」は、当時ナチスによる記録映画を編集して製作されたドキュメント短編。BGMにはバッハが流れ、モンタージュ的に紡がれる映像の中に、ソクーロフなりのナチスへ対する感情が表現されているのでしょう。その真意は一度見ただけでは計りかねますが、基本的には人々が思い描くヒトラーの典型的なイメージそのままに表されているように感じます。
「ペテルブルグ・エレジー」は、歌手シャリャーピンのドキュメンタリーである「エレジー」の続編との事です。その実験的手法のなんたるかは正直理解できないところではありましたが、ソクーロフお得意の長尺回しワンカットなど、後の傑作「エルミタージュ幻想」に通じる試行錯誤の過程であったことが窺われるでしょうか。
今回見た両作品は共に、映画としてのおもしろさを追求したのもでは決してなく、映画の可能性を拡大せしめるために、試験管内で行った核融合実験の一端ではないかと思った次第です。確かにソクーロフを語る上では重要な作品群と言えるでしょうが、別段理解出来なくとも自分を責める必要はないでしょう(笑)

大して露語を解さない私にもそれと分る、「конец(カニェーツ)」と言う単語によって、2作品の終映が告げられたことが知れる。両作品合わせてわずか50分。時間のストックが出来た私は、入り組んだ路地のラヴホテルの密集する地区で、今夜のディナーを取って帰ることにした。
昼間にその欲求を満たすことの出来なかったラーメンを食べるつもりで、「麺屋 豆の詩」と言う一軒ののれんをくぐってみる。「焼き味噌ラーメン」と言うその名産の醸し出す芳香につられ、私はコインを一枚づつ発券機の中へと滑り込ませていった。
しかしいざカウンターに着いて食券を提示したものの、建材で出来た固くて座りごごちの悪い椅子に思わず逃げ出してしまいそうになった。しかし必然の如くこの引込み線の内側まで引っ張ってきた投げ縄の如き太麺の小麦色が、同時にこの黄金色のスープの湖に私を引き留めておく、もやい綱の役割を担っていたのは隠し立ての出来ない事実であった。
焦がしねぎの風味も利いて、また焼き味噌の芳醇な味わいもまた格別。チャーシューと言うより、しょうが焼き定食で使いそうな大きな一枚肉が、味噌スープの香ばしい香りを吸って、噛めば噛むほどにその味わいを増す喜びの一品であったことは言うまでもない。満足の体で忠犬の街を後にした私であった。
自らのホームタウンへ帰り着いた頃には小腹が空いており、100YENのワンコインで1YENのお釣りが戻ってくるショップでちょっとした夜食を買うことにした。「あみ焼き仙兵衛 しょうゆ味」と銘打たれたそれを、早速帰りの道すがら封を開けて口へ含んでみる。
「ぱりぱりぽりぽり」と実に小気味良いリズムでもち米の粒子が砕け散り、深夜寝静まった街路に(実際都会では寝るにはまだ早いし、時によっては朝まで目覚めている人も数多く存在するものだが)その快音が鳴り響くようであった。
果たして私の口内宇宙の轟音はどれだけの周波数でもって、私がホームタウンへ帰ったことを告げるアラームの役目を担い人々の間へ浸透して行くのか。それは発信源である私自身の知るところではない。
と言ったところでアパートへと辿り着いた私である。かようにして今夜のブログが、およそ示唆的な志向を持ったモダニズムに溢れているかと思えば、都営線の車中、スティーヴ・エリクソンの「リープ・イヤー」を読み終えたことに起因する、後天性の猿真似を助長する向きがあったからに他ならないであろう。
そう言ったわけで気の済んだ私はそろそろ眠ることにする。夜のしじまに、グッナイ!

@ちぇっそ@