クリスマスの夜にちょっといい話 −第二部−

赤、白、緑でクリスマス色に

事務所のドアを開けた私。まさかそこがこの世の終着点、あるいは無間地獄への入り口が待ち受けていようとは思いもよりませんでした。私の机の前には、たそがれるようにして窓枠に身をもたげ、物思いに耽るような格好であのおばちゃんが佇んでいたのです!
「ギャー!」
こうなったらほとんど“ホラー”です。にわかに信じられない景色。しかしこれから控える仕事を前に、逃げるに逃げられぬ状況。「これか、これが老齢を重ねた女の恐ろしさか!」
やさぶろう婆も真っ青な執念深さ。究極的に相手を追い詰める手法は、高利貸し殺しのラスコーリニコフを設問する、名士ポルフィーリィ判事の如き周到さ。
人生を左右するとは正にこの瞬間でありましょうか。最終防衛ラインに背水を引かれた私には、逃げる道などなし。「最高司令部」より下された伝令は、「現状死守!1ミリの後退も許すべからず!」といったもの。意を決し、強靭なる不沈艦の装甲に一矢報いるため、自ら専制して言葉を発します。
「なんか、俺に用っすか」
するとまたもや、こちらの不快感など度外視して、自分の妄想を膨らましている様子のおばちゃん。
「ハイ、これ!」
強引に私の手のひらに、新たなる手紙を押し付けて来ました。
「ダダッ!」
これまた昨日の肘鉄を思い起こさせる力強さでもって、私を突き飛ばしながら走り去って行く彼女。事務所の床で、木の葉のように舞いながら、「だからぁ、事務所内は走るなって言ってるでしょ!」その時私の脳内では、同じ言葉がマントラのように輪廻していました。
恐る恐る覗いた手紙の内容は、およそ次のようなものでした。
≪ちぇっそさん。昨日は帰りの電車が一緒でしたね!でも、最後はあいさつも出来ずに別れてしまいました。ちょっと寂しかったけど、私、人ごみに消えるちぇっそさんの後ろ姿に向かって、小さく叫んだんですよ
『バイバイ、ちぇっすィー!』って!聞こえましたか?いえ、聞こえないですよね。でも私は、この想いを大切にして、家まで帰ったんです!≫
とか何とか。
この時の私の状態を考えてみてください。とても冗談としては受け取れない、当然笑えもしない。汚いもの見た?犬の糞を踏みつけた?いえいえ、とてもそんなソフトな言葉では言い表せません。
強いて言えば、巨大ナマコの尻の穴に、汚物で塞がれた便秘気味のナマコの尻穴に、ミミズの大群と共にぶち込まれた!そのような形容が似合いでしょうか。いえそれとて、その時受けた私の衝撃を正確に描写しているとは言い難い。
【干からびることなく、湿地帯で純粋培養された、12年もの、25年もの、40年ものの色とりどりの糞尿。天然の“アースカラー”に彩られ、まだら模様と化したおぞましい肥溜めの中へ、喘息患者3000人から摂取した痰壺がひっくり返され、異臭漂うウォータースライダーと化した滑り台で、ツバまみれになりながら垂れ流されて、為す統べなく頭から突っ込むような感覚】と言いましょうか。
私は世界鬼畜文学の愛好者でもありますが、未だかつて、これほど“キチガイな文章”にはお目にかかったことはありません!ショックで、それこそショックで、私はその手紙を見ただけで、瞳孔が腐ってしまったかのと思いました。
そもそも、一体誰が「ちぇっすィー」ですって?勝手にそんなあだ名を付けられては、これは立派な人権侵害に当たるのではありませんか!?名誉毀損です!
あの人はいつも、わずか十数メートル足らずの室内を駆けてくる。上司からも、「事務所内は走らないように」と、朝礼で“広い範囲の人”にそれとなく示した警告。しかしそれが、よもや自分の事を指しているとは露にも感じていない、厚顔無恥なおばちゃんは、懲りもせずに今日も駈けずり回るのです。
「バタバタバタッ!」
走り来る音でそれと分かる。走る音までもが“汚い”。さあ、また来たぞ。今度こそ言ってやる、あの言葉を。分からず屋のあのおばちゃんに、最後通牒を突きつけてやるのだ!
「あのォ。こう言う手紙迷惑なんで、今後一切受け取りませんから!」
言ってやった。遂に言ってやったぞ!仕事上の関係がどうこじれようと、知ったことではない。端から、人間関係の繋がりすら持ち合わせていないのだから。
「どうもすいませんでした!」
素直に謝罪する彼女。なんだ、きちんと言えば分かるんじゃないか。やはり、さすがにそこら辺は大人であった。話があるなら普通に話せば良いのだ。これでやっと、普通の関係へと軌道修正できたか。
「それじゃこの手紙、いらないんで返します」
そう言って、今朝受け取った、あの“既知外”な電波系文書を、私が彼女へと差し戻したときでした。
「でも、それだけは“受け取って”下さい!」
またしても、おばちゃん特有の拒否できない力強さによって、強引に押し戻されてしまった私。結局その手紙は私の手元に残ることとなり、折角下した私の大英断が、一気に単なる茶番へと逆転したのです。
あのおばちゃん、やっぱり何にも分かっちゃいねぇ!
そこからはまた、2人の関係が変な具合にこじれて来ました。確かに手紙は来なくなったのですが、仕事中、なんとか私とコンタクトを取ろうとしているおばちゃんは、彼女のことをおもしろがっていじっている平社員を介し、“間接的に”私と話をするようになったのです。
その光景はまるで、同時通訳をやっているかのようでした。日頃暇を持て余していたその社員は、私と仲が良く、また私と彼女とのやり取りも周知であるため、おもしろいおもちゃを発見した子供の如く、仕事そっちのけで私とおばちゃんの間に入り込んで来ます。
私の背後で、おばちゃんと平社員が会話をしています。もちろん私に聞こえるように話をするのですが、実際おばちゃんと直接やり取りしているのは平社員です。従って、私は“自分に向かって話されていない”という解釈のもと、わずか半径1m内で交わされる彼女の言葉を無視しまくっていました。
「わたし昨日、美容院に行って、ちぇっそさんと同じ髪型にしてもらったんですよ!」
すると、平社員。
「・・・だって、ちぇっそクン!」
私。
「あぁ・・・、聞いてませんでした」
「グフフッ・・・!」(平社員の笑い声)
全く、こんな不条理な状況をいちいちまともに相手してられっか。それでなくても、今まで多大なる精神的屈辱を受けてきたのですから。今度はこのおばちゃんに、自分の置かれた立場を認識させてやらなければならないのです。
「・・・・・・、ん?」
はて、何やらたった今、聞き捨てならぬ発言を聞いたような?
美容院・・・、髪型・・・、同じ髪型・・・・・・。
“ちぇっそさんと同じ髪型”だってェ!?
「オエー!オエッオエッ!・・・ウッ、ヴェェェエエエ〜!キ“モ”チ“ワ”ル“イ”ヨ“ォ”〜!!!」
何を言っているんだこの“キ印”は!確かに長髪であるワタクシ。女性が、その髪型を真似ようと思えばできるでしょう。しかし、それを実行するかどうかは別問題!
例えば、その男性が求める髪型へと変え、「あなた色に染まるワ・タ・シ!」と、お目当ての異性を振り向かせるのなら分かります。ところがこのおばちゃんが考えたのは、憧れの人の気を引こうと思って、逆に“引かれて”しまう行為に及んでしまったと言うこと!
どこの世界に、“自分と同じ髪型をした女性”を好きにならなければいけない道理がありましょうか!?そんなの、単に気持ち悪いだけ。好きな人の理想に近づくのではなく、“本人そのものが好きな人に近づいてしまった“と言う、本末転倒の大惨事!どうして自己同化してしまったのか。その考えるところは、完全に理解不能でありました。
更にそれからのこと。
「ちぇっそさん、映画好きだと思って、これ読んで下さい!」
と、渡されたのは、なんと「キネマ旬報」の切れ端。どうせならキネ旬ごと一冊寄越せば良いものを、何故こんな中途半端な記事を読まねばならぬのか!そもそも切れ端ですよ、“切れ端!”。
表にはキアヌ・リーヴス、裏には窪塚洋介が載ったそのフルカラー印刷を持って、私は一体どうすれば良いのでしょうか。そういえば、モニターの壁紙を窪塚洋介にしていたおばちゃん。これを読んで、「アタシの洋介を勉強しろ!」とでも言いたげ。
今度は、この私を“アタシ色に染めよう“ってことか!?
すいません、まだ後でエピローグの追加があります。長いね

@ちぇっそ@