かつてないほどの喪失感を味わった男の日記

今日は確かに、念願かなって行われた病気マン飲み会にて、酩酊しすぎていたということを考慮に入れても、あまりに多く散財し過ぎた一日であった。やりきれない仕事のフラストレーションにかまけて、なし崩し的に訪れた病気マンライヴであったが、その内容は期待に違わぬ伝説的なものであった。
しかし今宵は、その模様をお伝えすることを控え、あえてその後の私の身に起こった出来事について悲観に暮れてみようとおもう。ただ今のひと時は、全く、散財したことよりも多くの損失をこうむった、人生の一憂を思う瞬間を綴ろうではないか。
御茶ノ水総武線最終に乗り込む私。その横には、音漏れ著しい若年サラリーマンが座っている。永年のバンド活動により、すでに難聴気味の私は格別気にするほどではないのだが、周りの住人に考慮し、その若者に対して殊更険悪な態度を取っていた。
先ず混雑する最終電車にあり、足の裏をその若者に向けて組み返し、数センチ動けば靴底が彼の膝頭に接するようにしていた。そして、親しい友人にメールを打つ振りをし、これ見よがしに液晶を、“若者が見やすいように”と傾け、
「クソったれにはクソを!隣の爆音野郎は、所詮文句を言う度胸もないでしょう!」
などと、自己満足の提言を下していたところであった。
そんな私の目の前に、白いフレアのスカートが眩しい、黒ブーツを履いた婦女子がつり革を掴んで立っていた。
私の見栄とは言え、時折その婦女子の膝頭に私のつま先が当たる。悪いなとは思いながら、隣のインモラルな若造に思い知らせる必要に駆られた私は、他人の迷惑など度外視して相変わらず足を組み続けている。
そう、今日の私はいつもより少し強気なのだ。
ここでこの若造に詰め寄られようとも、それはむしろ望んだところ。来るなら来い。お前一人くらいを返り討ちにする体力は未だ持ち合わせているぞ!私の不変を示す、高慢な姿勢を取り付けていたのであった。
そんな私の態度を男らしく思ったかどうかは知る由もないが、何やら気になるその婦女子。たびたび当たる私のつま先を気にするでもなく、それとは裏腹に、思いがけず私の膝と膝の間に詰め寄ってくるようではないか!
これはどう言ったことかといぶかしむ私であったが、その親近感がなんとなく心地よく、しかしあくまで凛とした態度で、その信念を示す態度を取り続けていた。
若者が爆音ウォークマンを消すと同時に大人の態度を見せ、うざったく組んだ足を下ろした私。しかしその刹那、私のつま先がかつてないほどその婦女子にぶち当たってしまった。これはさすがに嫌われたと思い、もはや何者をも期待せず、うつむき加減で残りの電車をやり過ごそうと思っていた。
しかし!私の隣の席が空くと同時に、こともあろうにそこへ腰を降ろすその女子である。これはどういうことか。普通、初対面で受け入れられない異性を、これほどの短期間で“気になる男性”に仕立て上げることなど稀であり、ましてや、私のようなモノマニヤックな風情佇む人物などに、一瞬で好意を寄せる知識人などいないはず。
これは少し様子を見てみようとは、浅ましい私の下心の為せる業であっただろうか。
寝たふりでもして、婦女子に首をかたむげようとしたが、大して眠くもないことに気づきそれは早々に諦めてしまう。こんなイチゲンさんに不快感を示すのなら。なるたけ体を離そうとするはず。ところがそんなそぶりも見せない彼女は、何となく私への密着を試みているようでもあり・・・・・・。
太ももが触れ合う。満員電車のブルーシートで、彼女の息遣いどころか、内に秘めたる一夜の情事すら予感させるものがある。果たしてこれは妄想なのか、それとも第六感の為せる超常的な意思の疎通であろうか。
時として女子の思惑は飛躍的であり、およそ成人男子が思い描くような現実味に溢れたしがらみとは一線を画すものである。「夢見る少女」とは、一般に老若関係なく、女性の間で交わされる一種の倫理観であるとすら言えるのではないか。
「今夜、誘ってくれるの?誘ってくれたら、わたし、ついて行くかも」
これに騙されてはいけない。婦女子は、このような不特定の妄想によって、“一人の人に対する従順な私”への、有り得もしない不道徳を満足させているのだ。そこへ調子に乗った私が一声掛けようものなら、たちまち踵を翻して、
「勘違いしないでよね、この下衆ヤロー!」
と、たちまち罵られること請け合いである。
私はそこで大きな損失感を抱くであろう。しかし、現時点では未だ妄想の恋愛感情が続いており、在るか無きかの擬似ペッティングが試行されているだ。
完全に内的意識によって繰り返される行為は、実際的な快楽を伴わなくとも確かに感ずらるるものと思しき。この瞬間、2人は正に愛の絶頂!疑うべくも無い完璧なるオルガスムスムに身をゆだねている。絶対的エロスの渦中に存在するのだ!
あれほどの仕打ちをしたにも関わらず、相変わらず彼女は私の腿に、その豊満な根幹を擦り付けてくる。私たちの距離は縮まることこそあれ、簡単に離れ離れになって行くような、儚い脆弱性によって寸断されることはないとの確信が強まる。
ところが、もしあと一駅一緒であったら声をかけようと思う、穢れなき青年の想い空しく、こういう場合は大概、思惑の範囲外で彼女が先に席を立つと言うのも事実。今日に限っては、いつもより一駅早くその別離を予測した私であったがさにあらず。期せずして立ち上がった彼女は、私の予想したホームよりも“2駅早い”降車と相成った。
これは全くの予想外。完全にタイミングを見限られた私にとって、既に時は絶好の期を与えてくれなかった。まるで阿呆のように、立ち去る彼女を見つめて茫然自失とする私に、彼女はしかし、どことなく悔恨を残して、まだ見ぬ情事へのうらめしさを感じているがごとく足取りが重かった。いや、これもまた、私の新たなる妄想の賜物であろうか。
所詮、個人の思惑の中で行われるセックスであったことが救いだったのだろうか。夢は夢のままに、手にした自由こそは束縛への手足れ。未来永劫の牢獄へ、自由意志を閉じ込める足かせとしかならぬものなのかも知れぬ。
私は今日、何を得て何を失ったのか。それは神のみぞ知る。
しかし、私は神の意思を裏切ってでも手に入れたいものがある。それが何であるのか。終生の伴侶であろうか。それとも、末代まで連なる恨み節であろうか。
私にはそのどれもが、愛着あるものと感じることができる。
恨みの心に恋して、呪いの人生に囲まれて歩みながら。
それが私の生きかた。私の人生を愛すべきものにしてくれる、全ての一葉であるのだ!
私の人生に多くは望むまい。ただそこに、緊張と緩和があるだけでよい。全てが生活の営みの中に帰結し、大きな円環のなかで安堵へと繋がればよいのだ。
私は消え行くように。人々の記憶から消え行くように電車から降り立つのだ。
消えてしまった私の記憶は、もはや残された乗客の心にはない。
しかし、私からあの彼女の記憶が消え去ることは決してないだろう。私がこの世から消え去ってしまう前までは。

@ちぇっそ@