「おれの中の殺人者」

ルー・フォードは、テキサス州セントラルシティの保安官助手である。一見どこにでもいる平凡な男は、いつも心の中にある闇を見つめて生きていた。かつてチェスター・コンウェイの建設会社で働いていた義理の兄は、その建設現場で不慮の事故死を遂げていた。その死に不審を抱いていたフォードは、永年に渡り、自身の中で危険なる殺人衝動を育んでいたのだ。次第に狂気染みてゆくフォードの言動。そして遂に彼の中で抑えていた衝動が爆発し、悪夢を現実のものへと変える瞬間が訪れる。歯止めの利かない転落へと、ルー・フォードは堕ち込んで行くのだった。
今やノワールの嚆矢たるジム・トンプスン。その中でも彼を代表すると言われる一作が本書「おれの中の殺し屋」であります。かつて河出書房から「内なる殺人者」の題で刊行されていたものが、新訳となり扶桑社より再刊された作品です。河出版が出た当時でも、カルトなB級犯罪小説として一部マニアの間で話題をさらっていましたが、昨今はまた、かつてないほどのジム・トンプスンへの支持が集まっていると言う状況。
原書が書かれたのは50年代のこと。従って、当時にこの悪書を読み、しかめっ面をした社会の情勢と現在とでは、描き出される狂気性に違いがあるでしょう。まだ摂理道徳が健気にも守られていた時代。しかも舞台となるテキサスこそは、古き伝統に忠実なること正にアメリカの魂を象徴するような場所です。
フラワームーブメントが訪れる以前のお話であるので、当然トンプスンのような悪徳に満ちた小説など受け入れられるはずもなかったのでしょう。そう言った意味ではエポックメーキングであり、現在のノワール隆盛に先駆ける時代への挑戦であったのかも知れませんね。
一人称で語られる物語は、現在ほどの残酷描写に長けるものではありません。むしろ丹精であり、淡々とした筆致がモノトーンな心理描写へ繋がっています。ルー・フォードと言う殺人者は普通の人々の間で、日々生活の慣例に倣って生きているのです。
当時の検察の様子には詳しくないですが、恐らく殺人者の傾向として認識されていたのは、「狂人は狂人だから、狂人である」と言ったありていのものではなかったでしょうか。しかし、トンプスンの描き出す狂人は、むしろ普通人を装うことが出来る確信犯であり、他人の注意を自分から上手く逸らし、自身の内側から沸きあがる衝動を忠実に再現するクレバーなサイコなのです。つまり、現在のシリアルキラーに通じる先見性を持っていたことになります。
その辺りが、トンプスンの小説にとって一番の魅力と言えるでしょうか。徹底的にリアルな心理描写であるに関わらず、全てが一人称であるがために、時に幻覚を催す感覚に苛まれる。共感できるわけではないが、実に現代的な感覚に溢れた作品となっているのです。
その昔、ぺーパーバックの三文作家などと言われていましたが、読めば分かる、その根底に流れる知識の閃き。トンプスン自身相当にクレバーであり、当時の社会に対する批判や警告と言ったメッセージすら感じさせます。また詩人でもあり、カミソリのように鋭利で洗練された文体は、思わず自分のものにしてみたいと思わせる魅力に満ちていました。
あまり過剰に評価してはいけない作家のように思えますが、とにかく、おもしろい作品であったことは間違いありません。単なる負け犬ではない殺人者って、なんだか恐いですよね!

@ちぇっそ@