ミネラルウォーター幻想

今宵、ロバートブラウンの最後のワンショットを千葉のアパートの水道水で割った。
かねてより思っていたことだが、日本が世界に誇る“ただで飲める(もちろん実際には水道代が掛かっているが欧米の飲めない水に払う価値より数百倍も値打ちがある)”水を供給するこの関東平野において、わざわざ水割りの水にミネラルウォーターを使用するという贅沢な嗜好など端に置いておいてよいのではないかと感じていた。
私などむしろ、新潟の田舎で水質調査により、汲み上げていた地下水のぺーハー値が酸性を示していた自宅の水道よりも、学校の塩酸臭い水道の方がよっぽど好きだった人間にとって、この関東における水はとても飲みやすいものだと推進していた。
もっとも単なる変わり者と言ってしまえばそれまでだが、変なブルジョワ嗜好に乗っ取られずに、自分の価値観、もしくは生活水準によって導き出される最低線の贅沢を享受される方が、このデフレ時代に物申す最良の反政府活動ではないかと思う所存である。
まあ、それは単に言葉のアヤとして思い付きを述べただけであるが、ところで、今日の出来事などを一通りご紹介致そうではないか。
近頃は、全く残業の尽くす限りで、毎日5時間の残業など当たり前、下手をすれば終電を逃しタキシーで帰宅などと言う事態にも甘んじねばならぬ次第。やりがいのある仕事とは名ばかり、労多くして益安し。と言った、とても理不尽な不利益をこうむっているところであります。
連休明けのウィークデイ。基本的にカレンダー通りの出勤に付き合わされている筈なのに、4日に及ぶ残業時間で、なんと15時間を越すと言う状況。しかもこれは派遣の私の場合である。社員など私より居残って洩れた仕事の後始末などをつけている始末。この狂った凶行の中で、いよいよ人智は失われ、まるでそれが伝染病の如くにすべからず蔓延する様をあなたは見たことがあるであろうか!
顧客から、「注文したものが届かない」もしくは、「注文したものが届いたかどうか確認をして欲しい」との依頼が来ること、私が本日承っただけで10本近く。これを多く見るか少なく見るかはさて置き。日々の伝票出力などのオペレーションを行いながら、しかもそのシステムが、単にコンピュータのメモリー不足による処理フリーズの影響を受け、そのようなハードウェア的不具合を一身に背負いながら、顧客のあらゆるニーズに応えて行く私の姿をもしアナタが目撃したならば、それは名を失念してしまったが、フィンランド国境を、スムマ地区からカレリア地峡に渡って防衛した英雄のそれになぞらえることが出来るであろう。
正に背水の陣を引いた絶対絶命の行状況を、間一髪回避した大道芸的所業の為せる業であったのです!
昼休みには、唯一選択できるコンビニでの品薄の食料を買い込み、昼寝する間を惜しんで読みふけった「独ソ戦全史」のスペクタクルにカタルシスを覚えたワタクシでござます。誠に癒されますなあ、史実に基づいた壮大な軍事策謀の数々に酔いしれる個人でありました。
ドイツ第13装甲師団の先鋒を向かえ撃つのは、ロコソフスキー少尉率いるソ連邦第9機械化軍団であります。果たしてその結末やいかに!血気盛んな若き獅子は退却を余儀なくされましたが、しかし彼に教訓を与え、後の名声に繋がる素晴らしき洞察を与えたもう決死の行軍であったのです!
真に胸熱くする場面が目に浮かぶようであります。そんな闘争心を鼓舞する記録に触れ、午後からの歴戦に備えます!
午後になり、何やらいけすかない作業着軍団が押し入って来ます。
「おらぁ!そこ寸法の測り方違うんだよ!」
事務所からは失笑のため息が洩れます。いい大人が、4人も5人もこぞってメジャーの使い方でひと悶着をおこすとは、この作業会社は一体どんな人選をしていると言うのありましょうか。これでは真っ先にスターリン同士の粛清をかって、銃殺刑もしくはシベリヤへ強制送還という事態になりかねないほどであります。
さすがに雇い主からの失笑を肌で認識したのか、その後はなんとかおとなしくなりましたが、それでも口の悪い(それともホントに中の悪い)ガテン系連中は、どやどやとやかましく部屋の寸法を測っていったとさ!その様は、まるでガキ大将が全員集まったかのようなお祭り騒ぎで幕を閉じたのでありました。
その後の業務は推して知るべし。およそ千人以上に及ぶクレーム発起人に対し、たったの2人(実質私一人)で全て対処したという、まるで英雄的自伝を備え完結したのでありました!
しかしその後は、社内からの執拗なる業務妨害に遭ったり、主要担当社員による業務放棄に遭遇したりで、かなりの修羅場を経験したことは言うに及ばないでしょう。そうです、これが毎日繰り返される私に課せられたイニシエーション、題して「そんなの聞いてねぇーよ!」であります。
今日はたったの3時間半の残業、いつもより1時間半早いくらいでしょうか。そんなわけで、コンビニで買った酒の種類が、全く持って酒飲みのセレクションとなっていたのはご愛嬌!発泡酒のドラフトに、焼酎ワンカップ。黒なんとか(霧島ではない)と言う銘柄でありました。
すっかり飲んだ暮れて、発泡酒と同じ手でタバコをつまみ、着信のあった携帯に返信しようと思って履歴を出して。一体オノレは、タバコ吸いたいのか酒飲みたいのか返信したいのか、どれかにしろよ!ってな、いかにも最低線の人間を演出していた次第であります!
だらしないと言うか、すれ違っても誰も相手にしないタイプの、やさぐれ文句マンと化していたのです。それはもちろん、一人で独り言を愚痴っていたからですけどね!
こんな日はジム・トンプスンの小説が身に染みます。「おれの中の殺人者」の一節の数々。
 「この町はおれみたいな自由人にはやさしくないんでな。次ぎの給料日まで戻ってこない。だけど、おれから逃げ出そうなんて思うなよ。いやなことをするとな、旦那、いやな答えが返ってくるんだぜ」
 「ところがおれにはまだやることがある。全部持っていくのだから、荷物をまとめなければならない−“全てのドアを閉じた。”そして台所のテーブルの前に腰を降ろした」
 「たばこの紙巻は一枚しかなく、たばこの葉も一枚分ちょうどぐらいしか残っていなかった。おまけに−そう、“おまけに”だ!−マッチまであと一本しかなかった。万事順調というわけだ」
自分と言うものを受け入れてくれない社会に、もしくは、勝手に被害妄想に明け暮れる、社会に対してイジイジとした不平不満をぶつけるしかない我々にとっての、求道者と言えるトンプスンに共感するのは、私自身も心に闇を背負っているからなのだろうか。
いや、私は至って人畜無害で正常な、精神的異常者でしかない。トンプスンの描き出す“どこにでもいる”犯罪者と同類なのである。
それが、心地よい。

@ちぇっそ@