懐かしい場所へ

人には誰でも懐かしい場所というものが存在するだろう。
それは昔通い慣れた学校の通学路だったり、または淡い日の恋が、初めて挫折した悲しい場所であるかも知れない。
人はその場所を通り過ぎるとき、古き思い出が蘇り、「ああ懐かしい」と思うかも知れないし、または、にがく苦しい記憶しか呼び起こさないかも知れない。
しかしそこは、その人の人生にとって、正に自分が生きてきた記憶が刻まれているところなのだ。
“場所”として自分の心に思い出を刻み込み、そしてその場所に自分の形跡を刻み込む。肉体の消滅と共に自らが消失するのなら、それよりは遥かに永続的に存在する、空間的なものによって自分を表す手段と言えまいか。
生きた証とは、自分が“そこに居た”証でもあるのだ。
長く生きていると、必然的に思い出の場所が増えてくる。
私は何を思うのだろうか。
その場所を通り過ぎるたびに、過去の自分と再び対峙するような瞬間を感じることが度々ある。
私は、現在にいながらにして過去の自分を生きている。しかし悲しいかな、私は出生地からさほど離れた土地に暮らしてはいないし、近頃では同じ場所をぐるぐる徘徊してばかりいる。
この感覚は、果たして私が、自分の過去からそれほど歩み進んでいないという証拠なのだろうか。
懐かしさの中だけに生きている。そんなことがあり得るのだろうか。
もはや袋小路となった人生を象徴していると言えるかも知れないが、所詮、地球の中に暮らしているのであれば、居間で飼っているハムスター程度の行動半径しか持ちえていないのではないか。
生物の行動範囲なんて、随分と狭いところで満たされるものなのだろう。それが自分にとっての“世界”そのものであれば。
変わらない場所もあれば、変わる場所もある。当然、変わってしまっては、人の思い出というものは薄らいでしまう。人間とは、主観で生きる生物なのだから。
懐かしい場所を保存しようとする人がいる。そうとは知らない人がそこを破壊しようとする。
世界の思惑は、実に相対的な利潤の上に則り成り立っている。
変わってしまった場所に帰ることは、もはやその個人にとって無意味だ。
場所に自己を投影させていたのだから、アイデンティティの消失してしまった空間には自分の形跡が存在しない。
私は、そんな風にして、帰る場所を失った人を知っていた。
生きている人もまた、場所そのものであることも真実。
人の命は儚い。その人を失ってしまった場所は、景色の変化してしまった故郷と同義語だ。
そうやって懐かしい場所を失い、帰る場所を失い、そして根無し草になってゆく自分を憐れむのみ。
そうなってしまっては、人は枯れて行くだけである。
人は何故場所に固執するのか?固執するのは私だけか?固執しない人とはどんな人なのだろうか。
根がないからこそ高く飛び立てるのだろう。根があるからこそ大地に踏ん張れるのだろう。
あらゆる場所に自分の分身が存在し、もしくは存在しているかのように想像し、快速電車の窓外に、過ぎ去る駅のホームの上、別の日の自分の姿を、何度も見かけた日の幻想の述懐。

@ちぇっそ@