社会復帰第一日目

久方ぶりに日記なんぞを更新しようと思っているワタクシ、ちぇっそでございます!
え〜、別にROBINさんの突っ込みがいよいよ入ったからと言うわけではなく、更新が滞ってからと言うもの、私の周りでひきこもごもありまして、と言うか、私が自身に課したカルマに忙殺されまして、日記を書いているどころではなかったのです。
ま、その遍歴は後に回すとして、本日より、いよいよ仕事を始めることにしました!今週頭から行けたんですが、まあローテーションの兼ね合いもあり、2日遅れの今日から仕事始めとなったわけです。
未だ派遣社員ということに変わりないのですが、とりあえずのところ、次の固定の現場が見つかるまでの場つなぎとして、いろいろの会社にお邪魔することと相成るわけです。ウチの派遣会社の系列からすると、基本的には倉庫系物流業務の実地作業が主な職種です。
長らく事務仕事をしていたからと言って、この道一筋10年以上こなしてきている私にとって、そんじょそこらの物流業務などお手の物!いっぺん説明聞いたら、最終の荷物出しの段取りまでが目に浮かぶようなのです。「こう来たら、こう。そー来たら、そんな感じ!」ってな具合に、私の右脳内ロシア革命的コンピュータの中で作業のシミュレーションの“ラン”が走るわけです。
今日の現場は化粧品を扱う仕事。真新しい倉庫内で、いよいよ私の錆びついた腕に油を差すとき!と思ってがんばっていたのです。でも、私だけ何故か違う場所に連れて行かれ、カタログの袋つめ作業をやらされました。簡単主義でした。よかったです、仕事初めのリハビリには非常に有効な、スロースタートで開始されたのです!
と言ったところで、今夜は復帰のお祝い、または自分へのご褒美と致しまして、ちょっとお高い「アサヒ・プレミアムドラフト・熟撰」などをたしなみながら(単に新製品に弱く資本主義に踊らされ搾取される消費者ですから!)、今日一日を振り返っている次第にございます。
さてそこで気になるのが、この空白期間に私が何をしていたかということですね!(え、誰も気にしてねぇよ、キモイだけの“キモヲ田キモ男め!”なんて言わないで)この間、何が私に課されていたか?それは(もうお分かり?)、三百人劇場にて開催されていた、「ソビエト映画回顧展」に通いつめていたからに他なりません!
8/20〜9/11まで23日間に渡り開催された期間中、私は延べにして、15日の出勤(?)、そして本数にして34本のロシア映画を見てきたのです。と言うことは、出勤(?)した日は、一日2本以上見ている計算になりますね。
これはちょっとした、町の映画評論家並みじゃあないですか!まあ、そんなこともないのですが、この映画祭のために、本来であれば8月いっぴより始める予定だった仕事を繰り下げて(後ろ向きな人生だな)、ロシア映画コンプリートのためになけなしの貯金を食いつぶすことにした、と言う次第です。
と言うわけで、これほどまでに気合いを込めた企画を、単に「映画鑑賞会」だけに留めるだなんて!そんなの、例え神様が許しても、ロシアのイコン画家、アンドレイ・ルブリョフが許しちゃくれない!ってなもんで、当然の如くロシア映画レポートを執筆、その作業に勤しんでいたわけです。
そこら辺をここで逐次ご紹介していればよかったのでしょうが、そういうウザイことになるわけにも行かず・・・・・・と言うか、あえてここでの発表は控えさせていただいた次第なので、それが今まで更新が怠ってしまった経緯なのであります。
実はある計画もありまして、これ以外にもかなりの執筆なんぞを致しておりまして、それも含めてちょっと計算してみたところ、以下の通りになりました。
(全てデフォルト状態のワード)
延べ23日間の執筆量。約67ページ、47,069文字。
1日換算にして、3ページ弱、2,046文字。
と言った具合です。ジャーナリストとしては驚くべき数字ではありませんが(もっとも実際のプロがどこまで書くかは不明)、毎日書いていたわけではありませんし(サンバカーニバル参加で2日間潰れたりとかね、まあそりゃいいや)、ロシア映画について執筆する上で数々の困難が生じていたことも確かです。
資料が揃っている作品については問題ないのですが、資料不足の作品については、いちいちそれらを調査しなければなりません。当然、日本語のテキストであるわけではないので、まずもってロシア語で検索をかけなければ行けないと言う状況。
とにかくこれが厄介でした。調べるのなんて、せいぜいタイトルか人名程度なんですが、ロシア語なんてスペルを読むのでやっとと言う人ですよ。そんな人がオールロシア語のページをどうやって解読して行くと言うのです。と言うか、その前に検索するためのスペルが分からない!
例えば、「戦火を越えて」を例に挙げると最初の時点で分かっているのは、監督はレゾ・チヘイーゼ、そして1964年グルジアフィルム製作ということだけです。当然、邦題というものは意訳になっていて、単に翻訳ソフトで訳したところで、まるでロシア語の原題からはかけ離れてしまいます。
そこで監督の名前をロシアの書き文字であるキリル文字へと直そうとしても、これとて日本語では発音の表記ができませんよね。分かったところでせいぜい頭文字だけが確実になるだけのこと。
実は俳優ならば頭文字が分かれば、たいていは判明するHPを発見したのですが、監督に関しては検索が出来ない。そこで、映画際会場で売られていた、5000円もした大部な研究所「ソヴェート映画史−7つの時代−」の巻末データを紐解いてみる。しかしあくまでこれは、日本で上映されたロシア映画の資料であって、ロシア映画全作が網羅されているものではありません。だから、ここに載っていなければ一巻の終わりなのです。
すると英語発音のタイトル「Otets soldata」とキャストが出ていました。しかしタイトルの方はやはり当てにならず、俳優の名前を確認します。
キャスト、「ケテワン・ボショリシヴィーリ」
(ん!?)
いきなり挫折しそうになったので、もう1人の「セルゴ・ザカリアーゼ」で検索をかけることにします。すると、いました!そして、ご丁寧に表記されたバイオグラフィーに、かろうじて1964年の作品に参加した旨の記載があります。そのタイトルを確認したらズバリ、「戦火を超えて」の原題が判明しました。ちなみにこんな感じ「ОТЕЦ СОЛДАТА」です。
英語に訳してみれば、「ファザー・オブ・ソルジャー(「親父戦士」か?)」ということ。「ОТЕЦ(アチェーツ)」がファザー、「СОЛДАТА(ソルダータ)」がソルジャーということです。確かに、映画を見た者ならそのタイトルに納得できるのですが、日本語タイトルが「戦火を越えて」になるなんて誰が予想し得ましょう!いや、でも日本語タイトルの方が、味わいがありますよねぇ。
他にも、「ドンキホーテ」のサンチョ・パンサノを演じた俳優さんの名前が一向に分からず、しかし私の所見では、「これぞロシア国宝級!」の演技をした重要人物をすっ飛ばすわけにも行かず、たまたま見つけた「ozon.ru」と言うサイトで発見した次第です。ここがなければついぞ挫折するところでした。(他のロシア映画サイトでは、何故かこの人ばかりを避けて紹介されていたのです!)
ロシアと言えど、今となっては「ДОН КИХОТ(ドンキホーテ)」で検索しても、出てくるのは「ロストインラマンチャ」のことばかりなのですねぇ。こんなのばっかり、もうシビレまくっちゃいましたよ!
まあ、そんなことを言われても「そんなこと知ったこっちゃねー!」と言われそうですが、いや確かに!それにしても伝記ものなんかも多かったので、思わずレーニンやら、ハンガリーの作曲家フランツ・リストの歴史なんかも一通りお勉強したこともありました。ホントにもう何をやってるんだか!と言うわけで、仕事以上に忙しい毎日を過ごしておりましたとさ!
まだ少し遣り残したこともあるので、律儀に毎日更新できるか分かりませんが、ここにひっそりと復活を告げて、また暖かい自分の殻に引きこもろうと思います。
「チェッソ・ドーマ!」(ちぇっそは家にいるよ!)
Be動詞のないロシア語は便利だなぁ。

@ちぇっそ@