しわくちゃの千円札

深夜、思い出す。シャワーを浴びた後、夕涼みがてら借りていたソフトを返しに行こう。
シュヴァンクマイエルロシア映画、そしてスウェーデンのカルト映画で詰まったTSUTAYAの袋を抱えて家を出たのは、午前1時過ぎだった。
京成の踏み切りの手前までやって来たとき、一人の婆さんに声を掛けられた。
「ちょっとすいません。あのォ、上野はどちらへ行けばいいんですか」
小柄な老婆の発した言葉に一瞬意味が分からなかった。
上野・・・。
ここは本八幡。荒川は既に越えてしまっており、JRで言えば県境を越えて2駅目である。
「いや、お婆さん。駅へ行くならあっちですよ」
と言ってはみたものの、もちろん電車は既に終っている。
「ああ、そちらへ行くと松戸になるんですか」
「いや、そっちが駅に向かうんです」
「じゃあ、こちらが上野!」
「いや、そっちは松戸で・・・」
「ああ、こちらが駅!」
「いえ、駅は後ろのほう・・・」
話の噛み合わなさで狼狽する。
拉致があかないので一体どこへ行きたいのか聞いてみると、なんとお花茶屋へ向かいたいのだと言う。
深夜1時を回ったここ本八幡から、老婆は歩く気満々なのか?
これはかなり致命的だと思い、タクシーで帰ることを勧める。
「お婆ちゃん。こりゃタクシー拾ったほうがいいよ。JRの駅前にいっぱいいるから、とりあえずそっちに向かったほうがいいね。で、駅はあっちだから」
「ああ、ありがとう。駅はあちらなんですね」
いやだから、そっちは松戸だというに。老婆の指した方向は真反対であった。
一先ず駅へ向かって歩き出した婆さんを追い越し、私は駅前のTSUTAYAへと先走る。
無事ソフトを返し、途中のコンビニでビールでも1杯引っ掛けて帰ろうかと思ったが、やはり先ほどの婆さんのことが気がかりだ。
ビニール袋を2、3抱え、更にカートを引っ張っている。足取りはおぼつかなく、よちよちと歩いているその歩幅は数センチ単位だろうか。かなり遅い。
しょうがない、駅に着くまで送ってあげようか。
そう思った私はアパートへ引き返す途中、こちらへ向かってよちよち歩いて来る老婆を発見、保護する。
「さっきの人間だけど、俺が駅まで送っていくから」
そういって婆さんの手を取り、駅への道を引き返した。
話を聞いてみると御歳82歳、今日は神奈川へ行ってきたそう。白内障で視力が弱いから、夜になるとほとんど目が見えない。
こりゃ大変だ。
なおさら放ってもおけず、のろのろと歩く老婆の足取りに合わせて、ゆっくりと進んで行く。
婆さんが話す。親戚のこと、かつてあった身内の不幸のこと、若い日に世話になった工場長のこと、孫のこと、かつての恩師のこと、歳をとって多くが死んでしまったこと。どれも他愛のない昔話の羅列。
私は聞くともなしに相槌を打ちながら、駅まで行かずとも、止められるところで適当にタクシーを止めてしまおうと思っていた。
ところがいざタクシーを止めてみたところ、その運転手は千葉方面については詳しいが、東京の下町となるとトンと自信がないとのこと。確かに、入り組んだ裏道の連続。白内障で視力の弱い老婆がきちんと道案内できるとは思えない。
その運転手が言うにはやはり、駅の方で客待ちしている中から、東京方面に向かう車を探した方が良いという。ナンバーを見れば分かる、との言葉を信じ、結局婆さんの手を引いて駅まで向かったのだった。
これ以上婆さんを歩かせるのも難儀だと思ったので、老婆を交差点付近で待たし、私一人でタクシーを拾いに行く。
もしかしたら力になってくれるかも知れないと思い、駅前の交番へと救援を求めに行くが、中を覗いたら誰もいなかった。
しょうがないのでタクシーを捜すも、皆どれも習志野ナンバーばかり。私は一か八かで、近くのタクシーに声を掛けてみると、都合のいい事に昔葛飾に住んでいたという運転手に出会った。
「ちょっとお花茶屋まで行きたい人がいるんだが」
すると了解した運転手。私は婆さんの待っている場所まで道案内をする。
「婆さん、どこまで行けばいいの?」
運転手の言葉に、お花茶屋の駅まで行ければいい、と答える老婆。
「ああ、それなら道わかるよ」
と、これで話は決まるかと思った。しかし、実は先ほど別のタクシーを止めた時点で判明していたのだが、この婆さん、なんと所持金が1500円しかない。これではどう見積もってもお花茶屋までは行けない。
運転手に概算をしてもらうと、4千4、5百円で行けるのではないかという。私の所持金は7000円強。乗りかかった船だ、ここは俺がひと肌脱ごうじゃないか!そう思い、
「じゃあ、俺が金出すんで、婆さんを送ってってください」
と、言ったとき。
「いえ、それはダメよ!それはダメ!そんなことしちゃいけないわ!」
もの凄い剣幕でたしなめる老婆。いいから、いいからと車に乗せようとする私だったが、どうにもこの婆さんが強情でなかなか車に乗ってくれない。
「あのさあ、どうすんの。このお兄さんがお金出すって言うから、婆さん乗って行きなよ」
と運転手も一緒になって説得するが、結局テコでも動かない状態となってしまい、私のお節介もむなしく、婆さんは断固拒否してしまったのだった。
「なんだよォ、ま〜たあそこで1時間半も待たなきゃならないよ!」
と運転手が言うので、仕方がない。とりあえずここまでで上がっていたメーター代、900円を迷惑代として支払う。
「悪いね。兄さんもあんまり関わりすぎるからさァ」
確かに、何故ここまで面倒を見ているのか、既に初心を見失ってすらいた私であったが、ここまで来て今更引き下がれるかというのも道理。
まあ、恐らく幸はないであろう深夜の老人福祉。しかしどうにも、夜の闇の中に、目も見えない老婆を置いてけぼりにしてしまうのは、私のわずかばかりの良心でも呵責を覚えてしまう。
それよりも、既に引き際を遥か彼方へ置き去りにしてしまった私には、この煮詰まった状況にずるずると引きずられて行くしか、選択肢は残されていないのである。
こうなれば最後の手段だ。駅へ向かうと称して、このまま交番へ助けを求めよう。
駅にはもちろん近づいているのだが、交番に差し掛かったところでおもむろに足を止める。
「駅はこちらですか?」
と、聞いて来る老婆。
「いやぁ、駅はすぐそこなんだけど、お婆ちゃん一人だけ残して帰ることもできないから、おまわりさんに声掛けてから行くよ」
地元の手前、あまり警察に顔を覚えられるのは本意でなかったのだが仕方がない。ちょうどもどって来ていた巡査に事情を説明した。
茶店でもあればそこで始発まで時間を潰すと言っていた婆さんだが、残念ながらこの周辺に深夜営業の喫茶店はない。
「飲み屋じゃあれだしなぁ。漫画喫茶で泊まるにしても、1500円じゃ足りないかも」
というわけで結局、交番のお膝元だし、まさか暴漢などに襲われまい。JR駅の階段に腰掛けさせ、そこで始発を待ってもらうことになった。
ちょっと聞き、非人道的処置かも知れないが、交番はすぐ側にあるのだし、階段の目の前には客待ちタクシーの列が並んでいる。監視の目が充分なこの場所で暴虐を働こうとしても、所詮は無理なのだ。
巡査と2人で老婆を連れて行き、それじゃあねと帰ろうとするが、
「あ、お兄さんはちょっとここに残ってくれますか?」
と、迫る老婆。
「いやぁ、彼もほら、もう帰らなくちゃいけないから」
巡査がなだめるが、
「いえいえ、あと5分くらいでいいんです」
「いや、でもねぇ」
なんと言うか、情が移ったわけではあるまいが、私を引きとめようとしている婆さん。
長い人生を経て、話すことなら山ほどある。一体、“あと5分”がどれだけ伸びてしまうのだろうと、ここで危惧することに何の疑いがあろうか。
「なんていうか、俺も帰らなくちゃいけないから」
そうは言ってみるが、頑固な老婆はやはり聞いてくれない。
「ああ、じゃあ。俺、とりあえずもうちょっといますんで」
ああ、そう。しょうがない婆さんだね。なんて風に巡査は交番へと戻っていった。
さてこれから何が始まるのか。いささか逃げ腰の私に、老婆が手渡したものは。
「じゃあこれ、取っておきなさい」
と言って、握っていた1000円札を私の手に押し込んできた。そう、先ほど私がタクシーに払ったお金を返そうとしたのだ。
「いや、いいよ。俺もこう見えて意外と歳食ってるから、大丈夫だよこれくらい」
と言ってみるが、相変わらず強情な婆さんは、そんな若造の言うことなど聞いちゃいない。
しょうがないので、ここはひとつもらった振りをして、隙を見て婆さんの荷物の中に押し込んで帰ろうかと思った。
私は、何気を装ってカートのバッグに札を入れよとしたが、瞬間見破られた!
「ダメダメ!ちゃんと持って行きなさい!」
なんだよ、こんなときばかりちゃんと見えてるじゃないか!これにはさすがに苦笑い。
私は、これ以上愚策は通じないと観念した。
この強情は、本当にお札を受け取らないと私を帰らせてくれそうにない。
これで婆さんの所持金はあと500円。まあ、お花茶屋へは京成線を使えば一直線。
たまに遊びに行く、同じく京成線沿線に位置するはるまげ宅まで250円かかる。
花茶屋はそれより近い。500円あれば充分間に合う計算だ。
しがない年金暮らしだとしても、まさか1000円が明日の生活に支障を来たすとは思えない。
仕方なく、その握り締められ、くしゃくしゃになった1000円札を受け取って、私は家路に着くことにした。
「じゃあね、お婆ちゃん元気でね!」
基本的には良いことをしたのだろうが、結果的に少し罪悪感を残す形で別れることになってしまった。
しわくちゃの1000円札。どこか、あの婆さんそのものを思わせるようで、しばらくはこの1枚を使うことが出来そうにないなぁ。
息子夫婦は埼玉へ移住。お花茶屋の自宅に帰れば、ネコが1匹待っているだけだと言う。

@ちぇっそ@