入る、人ら

今日は午後からお出掛け。シネマライズで上映中の話題作「ヒトラー 〜最期の12日間〜」と、その夜池袋手刀で行われたZOMBIE LOLITAのライヴを見て来ました。一先ず今日のところは、平日の真っ昼間ながら“満員御礼”となっていた「ヒトラー」を先にご紹介します。
ヒトラー最後の側近が明かした真実の記録。第二次大戦末期、ソ連軍に攻め込まれるベルリン。絶対不利な状況の中、撤退、降伏の言葉をはねつけ、尚も有り得もしない逆転攻勢への指令を発令するヒトラー総統。疲弊しきったナチス軍にもはや反撃する余力は残っていない。前線となった首都で追い詰められる最高司令部。錯乱し、統制力を失った最高指揮官に幹部たちの忠誠心は揺らぐ。裏切りと絶望、そしてヒトラーを取り巻く女たちの姿。20世紀最大の事件の全容が解明される!
戦争が終結するに至る、正に最期のクライマックスがここにはあるわけです。筆舌に尽くし難い映像の数々に身動きひとつ取れないほど。感動だとか、カタルシスなどと言った範囲を超えて、事実の目撃者として視聴者は単にその現場に居合わせるだけなのです。往々にして当事者というものは、直面した事件に対していかなる感情も持ち合わせていないもの。ガラス1枚隔てて「こんな事があったのだよ」と、ある種傍観者の心意気を込めて語るものではないでしょうか。
あまりの現実にショックを受けるというか、ヒトラーという男に対して新たな解釈を与えてしまったという点で、とてつもない問題作であると感じました。このように“人間ヒトラー”としての一面を表現することは大変危険な試みであるのではないかと。
“人間味溢れる”ヒトラーの姿に動揺してしまいます。もちろんだからと言って、世界の敵、悪の独裁者という周知の事実が揺らぐことはありません。しかし、今までヒトラーに抱いていた気持ちに揺らぎが生じることも確かです。ある意味R指定じゃないかと思いましたが、私の取り越し苦労でしょうかね。
私生活では、紳士的で穏やかな一面を見せていました。しかしいざ総統の立場になれば、それこそ市民の命すら顧みない無謀な計略の数々を立て、幹部の忠告すら無視して作戦を決行させるのです。果たしてこれは演技であったのか、はたまた最高指導者という立場に追い込まれたことによる強迫観念の成せる業だったのか。その辺りはヒトラー本人にしか分からない、いや、本人にすら分からないことかも知れません。
思想家としての面も持ち合わせています。高い理想は巧みな言葉とメディアによって広く深く浸透して行きました。しかし理想実現の為にとった手段は、やはり倒錯していたとしか考えられません。
いかにして彼がこのような独裁者となるに至ったかはここには記されていません。ですから心理学的な側面から、ヒトラー誕生と独裁政権樹立の過程について分析することはここでは無意味と言えます。むしろヒトラーの錯乱につれ冷静になって行くドイツ国民の姿に、この戦争の中での救いを見る思いです。
しかしながら、今まで“人”として描かれなかったヒトラーという人物像に、“人間”としての価値を与えてしまったこと、この映画を観て、私は益々ヒトラーという存在が分からなくなってしまいました。戦争というものをより理解している方こそ、この映画に大いなる衝撃を持たれるのではないでしょうか。
更に言えば、ヒトラーが倒れた後のドイツの姿が知りたいと思いました。ヒトラーに対してどのような感情を持ったのだろうか。そして今回この作品によってどのようにその見方が変化したのか、またはしなかったのか。その辺りは勉強不足で私が知らないだけかも知れませんが。
ナチスドイツとは一夜の夢であったのでしょうか、それとも一時の熱病であったのでしょうか。歴史が下した判断は揺らぐことはないとしても、ヒトラーへの新たな解釈を提示し、そしてドイツそのものについて深く考えさせられた映画であります。
余談ですが、予備知識をほとんど持たずに観に行ってしまった私は、まさか完全に事実に即したものだとは思わず、エンドロール直前に明かされる記録に思わず身震いしてしまいました。ホントに、癲癇みたいに硬直してプルプルって。画面から目を逸らせばいいんだけど、もう首が動かない(笑)。まあ、バラすのもなんなのでヒントだけ。「僕の村は戦場だった」のラストみたいな感じ、と言えば分かる人には分かるでしょう!
それと余談第二弾、純粋なドイツ映画だからってわけではないですが、これを書いているときに流していたBGMはクリーターの新譜とデストラクションの1stでした。別に何の他意があるわけでもなく、たまたまスラッシュドミネーションの予習復習をしていただけです!

@ちぇっそ@