コミューン文学

リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」について、私は書いた。
これはどういった物語であるか、あなたは知りたいと思っているだろう。これは決まったストーリーを持たない物語のひとつだ。あなたがこの物語を決める。あなたの心に浮かぶこと、それがこの物語なのだ。
といった具合に、作品の最初の方に書かれている、そのシュールで退廃的な世界観を表した印象的なフレーズなどを、思わず用いてみたりしました。
−それがこの物語だ−
アイデス<iDEATH>という名の、なんとも実体のつかめない、混沌とした場所が物語の舞台となります。多分にコミューン的で、一見してドラッグカルチャーの副因分子的な作品と見受けられるかも知れません。
−それがこの物語だ−
ところが、本書は時代に先行する形で発表されており、むしろ追いついてきた時代が、ブローティガンを時代の窮児へと押し上げたのは、なんとも奇妙なめぐり合わせだったと言えるでしょうか。
−これぞ世にも奇妙な物語だ!−
幽霊のように実体がなく、意識だけのやり取りで人々が暮らしているような、なんとも不安定な社会。洗練された筆致、詩的で実験的な技法が、霧の中でたゆとう簡素な文字たちの行列となり、まったりとしていながら反逆的な若者の世界を描いて行きます。
煙のように立ち消えるはかない言葉たち。常に川の見える風景と相まって、どこか山水画に似た、東洋的な涅槃の調べすら感じさせます。
いかにも文学好きする青年のインテリジェンス溢れる作風と言え、「俺、こんなん読んでんだぜ!」なんていう、当時のカウンターカルチャー勇ましき若者のしたり顔などが浮かんできます。
文学が文学足り得た時代の、最期の芳香を感じさせる作品といえるでしょうか。今読んでも、とても新鮮です。こうした文章を読むのは、非常に刺激的であります。
当時、それは言葉そのものに意味を与える創造的な作業だったのでしょう。現代でそれをやっても、単なるパロディ?いえ、ギャグになってしまうでしょうか。まあ、それは今も昔も変らぬ、古典へ対するリスペクトであったかも知れませんね。
さて、私の場合は?
ブローティガン「西瓜糖の日々」について、私は書いたのです。
−それがこの物語だ!−
ちぇっその文体練習でした!

@ちぇっそ@