塵も積もれば「塵理論」

所詮塵なんてものは、いくら積もっても塵に過ぎません。貧乏人がなけなしの金をはたいて購入した株式程度じゃ、高額納税者や大手資本の前に、全く太刀打ちなんて出来ないんですから!
とうわけで、1994年発表グレッグ・イーガン順列都市」を読みました。オーストラリアが生んだ現代最強のSF作家で、以前に同作者の「宇宙消失」を読んで以来の大ファンです。アイデンティティの作家と呼ばれることもしばし、「自分とは何か」「自分の“存在”とは何か!?」といったことを徹底的に検証することで知られています。そして最先端の科学技術論を駆使し、嘘か誠か、稀有壮大なスケールと共に論理のアクロバットが展開されるのです。
今日のお題となっている「塵理論」というのは一体何か?これはもちろん、小説内のフィクションとして想像された架空の科学理論です。説明を窮すると言いますか、そんなことはあり得ないだろう、といったようなほとんど法螺話に近いような理論です。
入り組んだ話と言いましょうか、ちょっとストーリーの説明ができないのですが、平たく言えば「1000年王国」を創る物語。しかもそれはハードウェアの中で走らされるプログラムでありながら、既にハードウェアを必要としなくて、“宇宙が滅んでも永遠に存続し続ける”正に究極の不老不死の実現というお話です。
既にこの時点でわけ分からなくなってきていますね。舞台は20世紀中頃の地球。人々は人体スキャンを受けて、死後もサイバースペースで<コピー>として復活できます。しかしこれでは当然、ハードウェアの寿命と、人類そのものが滅んだ場合、それを管理する生身の人間がいなくなることから、決して病死も事故死もない<コピー>の世界であっても、ハードウェアが死んだ場合は自分も死ぬことになります。
そこで主人公のひとり、ポール・ダラムという人物が発見した「塵理論」によって創られた、もはやハードウェアを必要としないプログラム、「順列都市」と呼ばれるユートピアへ、<コピー>の皆さん、移住しましょう!というのが大まかな説明になるでしょうか。
今回この「塵理論」の解説は抜きしまして、この作品の非常にユニークな点は、古典的な題材である<コピー>というテーマについて、徹底的に議論されているところでしょう。
結局<コピー>なんてシステム上のプログラムでしかないのではないか?<コピー>に人権を認めるのか?<コピー>には<コピー>としての“アイデンティティ”はあるのか!?といったことが焦点となって、禅問答のように延々と論議されます。
とにかくドストエフスキーがSFを書いたみたいで、徹底的であり、論理の矛盾点すら看破して、めくるめく思考実験の繰り返しに、ある種の幻惑さえ引き起こすほどです。もっともドストエフスキーより整合性はあるのですが、やはりどう考えても言ってることはメチャクチャです。
終盤にとんでもないどんでん返しが控えています。それは例えば「卵が先か?ニワトリが先か?」という問題が既に「卵が先!」、と証明されていたとします。しかし後になって「やっぱり、ニワトリが先になるかもォ!?」と、世界の摂理を根本からくつがえすような、とんでもなくおバカな展開へとなだれ込むのです。
神とは人間の論理で作り出された偶像です。しかしだとしたら、我々人間もどこの誰かが、論理から想像した架空の存在であるかもしれない、とする可能性があるのではないでしょうか。「論理が先か人間が先か!?」論理が崩れたら、我々人間が崩壊するということです。さぁて、今度は我々自身のアイデンティティが揺らぎ始めて来たのではないですか!
アイデンティティ・モラトリアム>ならぬ、<アイデンティティの揺らぎ>とかって名前付けたり。
専門用語の羅列凄まじく、ファンの私ですらつっかえながら読んでいた始末。むしろコンピュータの専門知識に長ける方でしたら、意外とスラスラいけるかも知れません。「SF読んだことなかったけど、この本バカでいいよね!」なんてことになったりして。
はっきり言って、普通の読者にお勧めできるような代物ではないと思いますが、とにかくとんでもない話が読みたい!という人には、腹を据えて向き合ってもらいたい作品でありますね。
ちなみに「塵理論」について少し解説しておきますと、いわゆる原子からなる人間は、原子の配列を“人間”にすれば、すなわち「人間」となるのではないか!と言うのが、ひとつの原理であります。
つまり、ディスプレイ上の「ドット」で記された<コピー>は、”人間“として配列されているから、間違いなく「人間」である!?と。さあ、どうでしょうねぇ。

@ちぇっそ@