ドストィェーフスキー祭2005 第2弾

2冊目も感想も書いたので、ここに上げておきます。
毎年恒例ドスト祭第2弾です。今回は特に、ドストィェーフスキー研究の第一人者であらせられた、江川卓氏が昨年お亡くなりになられたので、ここはひとつ追悼の意を込め、是非とも氏の翻訳した文章をたしなみたいと思った次第であります。
地下室の手記」、短い作品です。
ドスト氏の作品群の中にあってかなり異色な小説であります。ドスト好きの私も、読み始めの部分は一体何が書いてあるのかさっぱり理解できず、わずか200ページ足らずのこの文章に、早くも断念の烙印を押そうかと思ったほどです。しかしながら、出だしが読みづらい作品と言うのはポストモダン系に良くありがちで、最初のハードルを乗り越えて後半の醍醐味へと突入するのですが、しかし当然氏の生存していた時代にそのような手法は確立されていません。半信半疑のまま、ホントに難しい小説だったらどうしようと危惧しながら、無理やり読み始めました。
とある貧乏貴族の1人称という形で物語は進みます。始め、何やら小難しい屁理屈を吹聴しております。この偏執的な理論のこねくり回しは、ドスト氏お得意の自動手記を思わせます。あふれ出る言葉の洪水を滞らすことなく書き付け、一切合財の説明もなされぬまま、半ば陶酔の境地に達するかのようです。
告白とも、「告発」とも取れる執拗なる弁解。今なら差し詰め「引きこもり」と呼ばれそうな、いかにも地下室的な陰鬱さに満ちた文章です。
途中から場面が主人公の実生活へと移り、社会的に成功を収めている旧友たちとのやり取りが始まります。落ちコボレの彼は、そんな中で自分の惨めさを噛みしめながら、しかし腹の中では自分の方が豊かな人間であると信じ、どこからともなく訪れる根拠のない自信を抱いて自らを納得させているようです。
しかしやはり、どこかいじけている彼は、自暴自棄になり酔った勢いに任せ娼婦と寝床を共にします。この辺りにとても示唆的なものを感じます。彼が娼婦相手に振るう長広舌には、愛だの憎しみだの、この世の一番卑しい人間の慣れの果てだとか、こんな商売をしている娼婦に対し、その心を揺さぶってやろうかと芝居じみた演説を打つわけです。
しかしその実、むしろ自分自信が揺さぶられている事に気付きます。愛情に飢えているのは自分ではないか、成功者に対して憎しみを抱きながら生きているのは自分の方ではないか、というわけです。
正直、逆に短すぎてこの小説の真意を読み取れなかったように感じますが、どうやらこの作品が作者の転機となった作品でもあるようで、そう考えると何か、今まで特に記述することはなかったが、どうしても気になっていたことにけじめをつけるために書き出した、過去へちょっとしたの総決算でもあったような、そんな印象を受けなくもないです。
というわけで作品は短いですが、一連のドスト作品の中ではかなり上級に位置する物語であったと思います。ま、途中からは比較的普段通りに楽しむことが出来ましたが、もっと長い物語の中で、めくるめく悪夢のような世界を期待するには少し物足りない部分もありました。
今年のドスト祭りはこんな感じでした!

@ちぇっそ@